

飛鳥山公園の歴史は今から300年ほど前にまでさかのぼります。江戸幕府の征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)であった徳川吉宗(とくがわ よしむね)が享保の改革の一環として桜の木を植え、整備を行いました。
徳川吉宗は、江戸庶民に生活の安定をはかる為、米価の調節につとめた将軍で、「米将軍」とも呼ばれていました。よくご存知なのは「暴れん坊将軍」だと思います。ここで徳川吉宗について少し詳しく説明します。
徳川吉宗は、徳川御三家、紀州藩の藩主である徳川光貞(光貞にとって徳川家康はimg父になります。)の4男として生まれました。母である浄円院は、紀州徳川家の召使だった巨勢六左衛門利清の娘という事もあり、身分の違いから吉宗が幼少のころは家老の家で育てられました。
14歳になった吉宗は、第5代将軍の徳川綱吉に面会をし、越前国丹生郡(現在の福井県)に3万石を貰い葛野藩(かずらのはん)主となります。それから8年あまりで父と兄が次々と病死したため、吉宗は22歳の若さで紀州藩を継ぐことになります。藩主になった翌年には皇族の伏見宮貞致親王(ふしみのみや さだゆきしんのう)の娘の真宮理子を正室に迎えていますが、翌年に真宮理子は亡くなられています。その後、父や兄の葬儀費用や、幕府からの借金、藩札(各藩が独自に領内に発行した紙幣)の停止、災害などもあり、かなり財政的には圧迫していた藩の財政を再建するため、吉宗は藩のつくりそのものを簡素化し、質素で徹底した倹約を努めます。
その後、第7代将軍の徳川家継(徳川15代の中で最年少で将軍になった人)が亡くなると、徳川御三家の中で家康に一番血筋が近いという理由で江戸幕府6代将軍、徳川家宣の正室である天英院に江戸幕府8代将軍になることを命じられます。
吉宗は第8代将軍にある際、今まで藩主をしていた紀州藩を廃藩とせず、従兄弟の徳川宗直(生涯正室を持たず、側室に11人も置いた結果、子供には恵まれ紀州藩は後、第9代藩主まで血筋が続いている。)に譲り存続させました。吉宗本人は江戸城に入る際には、紀州藩にいた小禄を20名ほど連れただけでした。逆にこれが側近政治に怯える大名や旗本からは好感を持って迎えられました。
将軍になった吉宗は藩政の経験を生かし、財政の再建を始めます。定免法(過去数十年間の農作物の収穫率から平均を割り出し、年貢の徴収量を決めた方法)や上米の制(大名に関しての年貢の制度で米の代わりに参勤交代で江戸にいる期間を半分にした制度)や、新しい田畑を切り開いていったり、上米の制(能力のあるものを要職に就けさせ、役職を退職する旧来の額に戻る)などがあります。他にも目安箱、江戸町火消し、医療所などの設置もあります。これらを享保の改革(きょうほうのかいかく)といいます。この享保の改革により、幕府の財政は安定しましたが、農民の生活は窮乏になり百姓一揆などを招く結果となってしまいます。
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当時の江戸は桜の名所というと寛永寺くらいしかなく、桜の時期にはたいへん風紀が乱れていました。そこで徳川吉宗は江戸の庶民が安心して桜を見て、宴会を開ける場所を作りました。それ以来、桜の時期になって江戸の風紀が特別に乱れたということがなくなり、開放時には吉宗自ら飛鳥山に宴席を設け、名所としてアピールを行ったそうです。
ここで寛永寺のことを少し記載します。寛永寺は現在の東京都台東区上野桜木一丁目にあります。今の上野公園のほぼ倍の広さが寛永寺の敷地でしたが、幕末の戦場になったり、第二次世界大戦などによりい多くの建物は焼失してしまい、現在の上野公園内に点在している建物だけになります。寛永寺には徳川の歴代将軍15人のうち6人がこの寛永寺で永眠していますが非公開とされています。
寛永寺は寛永2年に徳川家が新たに作った寺院で、当時の年号をとって名前が決まりました。寛永寺は1622年に徳川秀忠と僧天海が建設を発願してから70年以上もかけて堂塔や中堂など建設、整備されて完成いたしました。場所を上野に決めたのは、江戸城の鬼門にあたり幕府の鎮護の場所として、京都にある比叡山を元にしたからです。不忍池は比叡山の袂にある琵琶湖に見立てたと言います。寛永寺は正式名称を東叡山寛永寺円頓院といいます。
このページのTOPへ飛鳥山公園は一部の間では王子公園ともいわれています。園内に佐久間象山の桜賦碑(さくらぶやく)、船津伝次郎(ふなづ でんじろう)の碑などがあり、飛鳥山公園の名の通り一帯は小高い丘になっていますが、飛鳥山という名前は国土地理院の地形図には記載されていません。
飛鳥山はナント2006年になるまで、正確な標高も測量されていませんでした。北区では港区の愛宕山よりも低い山なのではないかと測量を行い、実際に愛宕山よりも低いことがわかりました。北区は国土地理院に対し、飛鳥山を地形図に記載するよう要請しています。
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