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この銅像の方が渋沢栄一氏です。この方は何をしたのか?と素朴に疑問なので、ここで紹介します。
渋沢栄一氏は1840年に武蔵国血洗島村(現在の埼玉県深谷市です)に父・市郎右衛門氏と母・エイさんの長男として生まれました。渋沢家は藍玉(藍の葉を発酵させ突き砕いて固めたもので染料で使用します)の製造と販売、養蚕(蚕を飼ってその繭から絹糸を作る仕事です)とを営み,米や麦、野菜も作る、兼業農家でした。藍玉の原料やその他の買い入れと販売も行っていたため、一般的な兼業農家とは違い、常に経済概念を把握する才能が求められました。渋沢栄一も父と一緒に信州や上州まで藍を売り歩き、藍葉を仕入れる作業も行いました。14歳の時からは一人で藍葉の仕入れに出かけるようになります。この時の経験がヨーロッパ時代の経済システムを理解する体質づくりの基本となり、その後の現実的な合理主義思想につながったとされています。
幼少の頃より父から読書をするように言われていた渋沢栄一は、7歳の時には従兄の尾高惇忠のもとに通い「四書五経」や「日本外史」を勉強をしていました。18歳の時には惇忠の妹の千代と結婚をし、名前を栄一郎と改めます。1861年に江戸に出て海保漁村(庶民教育に徹した幕末の儒学者)の門下生となります。また千葉栄次郎(剣術の流派北辰一刀流の創始者である千葉周作の次男)の道場に出入りし、将軍や天皇に忠義を尽くす人たちと親しくなります。その影響から1863年に、天皇を尊び外圧・外敵・外国を撃退しなければ、日本の未来はあり得ないという思想に目覚め、高崎城を乗っ取り、横浜を焼き討ちにして、幕府を倒す計画をたてます。しかし、惇忠の弟長七郎の説得により幕府を倒す計画を中止し、京都に向かい一橋家の家臣、平岡円四郎の推薦により徳川慶喜(一橋慶喜と同一人物)に仕えることになります。仕官中は一橋家領内を巡回して農兵の募集などを行っていました。徳川慶喜が将軍ときに栄一も幕臣として昇進し、フランスで行われるパリ万国博覧会に将軍の名代として出席することになり、徳川慶喜の弟の昭武と万博を視察したり、ヨーロッパ各国を訪問することになります。昭武とヨーロッパ各国訪問を終えた後、昭武はパリに留学しますが、大政奉還に伴い1867年に新政府から帰国を命じられ12月共に帰国することになりました。
フランスから帰国後は、静岡に謹慎していた徳川慶喜に、静岡藩で働くことを命じられます。しかし渋沢栄一はフランスで学んだ「株式会社制度」を実践するため、それを断り1868年1月に静岡で商法会所を設立しますが、大隈重信(第8代、第17代内閣総理大臣)に説得され大蔵省に入省することになります。大蔵官僚として民部省改正掛(当時は民部省と大蔵省で、当時は統合されていました)を率いて改革案の企画立案を行ったり、度量衡(さまざまな量に対してそれを測る「もの」あるいは「単位」)の制定や、国立銀行条例制定に力を注ぎます。しかし予算編成を巡って、大久保利通(薩摩藩士でのち政治家)や大隈重信と意見が対立して、1873年に井上馨(外務卿、外務大臣、農商務大臣、内務大臣、大蔵大臣を歴任し、鹿鳴館を建設した人)と共に退官することになります。
大蔵省を退官した後、官僚時代に設立を指導していた第一国立銀行(現在のみずほ銀行)の頭取に就任します。その後、第一国立銀行だけでなく七十七国立銀行(宮城県の地方銀行)などの、多くの地方銀行の設立を指導していくことになります。銀行の他に、東京ガス、東京海上火災保険、王子製紙、現太の平洋セメント、帝国ホテル、秩父鉄道、京阪電気鉄道、東京証券取引所、キリンビール、サッポロビールなど、現在では大手企業の設立に渋沢栄一は携わりました。
外人土地所有禁止法(外国人が日本の土地を所有する場合には大変な条件が必要になりました。これにより日系人も外国人と見なされ、日本の土地を所有できなくなったのです)などの日本移民排斥運動で、日米関係が悪化したときには、日本の理解をアメリカに促進する為、アメリカの報道機関へ日本のニュースを送る会社を作ることを提案します。この提案は成功はしませんでした。しかしこれが現在の時事通信社と共同通信社の発端になりました。
渋沢栄一が三井財閥・岩崎財閥・安田財閥・住友財閥・古河財閥・大倉財閥などの、明治の他の財閥と違うところは、自らの財閥を作らなかったことです。「私利を追わず公益を図る」という考えを生涯に渡って貫き通し、後継者の敬三にもこれを守らせました。他の財閥当主がみな男爵を授かっているのに対し(当時の華族制度は一番下が男爵、次は子爵、次に伯爵、侯爵、公爵、となっています。)財閥を作らなかった渋沢一人が子爵を授かっているのも、日本の為に貢献したことが評価されていたことによるものです。
渋沢栄一は経済界の中で、心から日本のことを思い、日本が豊かになることを考え、社会活動に取り組んでいましたので、東京市からの依頼で養育院の院長に就任し、他にも東京慈恵会、日本赤十字社、癌予防協会の設立などにも深く携わり、財団法人聖路加国際病院初代理事長、財団法人滝乃川学園初代理事長、YMCA環太平洋連絡会議の日本側の議長なども務めるなど、医療分野にも大きく貢献したといえます。関東大震災後の復興時には、大震災善後会副会長となり寄付金集めなども積極的に行いました。
当時は商人に高等教育はいらないという考え方が一般的だったのを、商人だからそこ学問必要だと渋沢栄一は考え、商業教育にも力を入れ商法講習所(現在の一橋大学)、大倉喜八郎(商人から建設・貿易など事業に転身し、晩年は私財を投じて公共事業や教育事業に貢献した人)との関係で、大倉商業学校(現在の東京経済大学)の設立に協力し、創立者大隈重信との関係で早稲田大学、創立者三島中洲(漢学者で詩人、現在の東京大学の教授を務めた人)との親交で二松学舎(現在の二松学舎大学)、野田卯太郎(衆議院議員)との関係で学校法人国士舘(創立者・柴田徳次郎)、井上馨に乞われ同志社大学(創立者・新島襄)の寄付金の取り纏めや創立に関わっています。
商人同様に教育は不要であるとされていた女性の教育の必要性を訴え、伊藤博文、勝海舟たちと女子教育奨励会を設立し、成瀬仁蔵らとともに日本女子大学校、伊藤博文との関係で東京女学館の設立に携わりました。その他に日本国際児童親善会を設立し、アメリカから青い目をした人形を頂くと、お返しをしたいう子供たちの願いから、クリスマスにあわせて日本の人形(横浜市代表の濱子や神奈川県代表の神奈子が有名)を答礼人形として交換するなどして、交流を深めることに力を注ぎました。
1931年には中国で起こった水害のために、中華民国水災同情会会長を務め義援金を募ったり、国大統領グラント、救世軍ウイリアム・ブース、インドの詩人タゴール、中国の政治指導者孫文など、多数の外交を行っていました。これらの多数の実績において渋沢栄一は1926年と1927年のノーベル平和賞の候補にもなりました。
渋沢栄一は、幼少からの教育されていた論語を基点として、論理と利益の両立を訴えて経済を発展させていきました。利益の独占を考えず、国全体を豊かにすることをモットーに活動し、末には民間外交に力を入れ、現在の日本の資本主義を作り上げた一人と言っても良いでしょう。
このページのTOPへ上記の作品など、数々の本を出版されています。
毎週月曜日(祝日・振替休日は開館)
年末年始
祝日・振替休日の翌日(土曜・日曜は開館)
午前10時〜17時開館(観覧券の発行は閉館の30分前まで)
一般:300円(団体240円)
小・中・高:100円(団体80円)小学生未満は無料。
20名以上で団体金額にて入館できます。
(団体で入館希望の方は事前に連絡をするようです。)
旧渋沢庭園は入場無料です。

財団法人 渋沢栄一記念財団は、渋沢栄一氏が常に主張し、実践していた「道徳経済合一主義」に基づき、経済道義を高揚することを目的とする財団法人です。
〜本館〜

常設展示は渋沢栄一氏の生涯を、生家の家業〜91歳で永眠されるまでを順を追って紹介されています。書画のコーナーでは竜門社の歴史や、渋沢栄一氏の数多い書を紹介しています。時折、企画展示も開催されています。
〜晩香廬〜

旧渋沢庭園内にある晩香廬は渋沢栄一氏の喜寿を祝って清水建設株式会社が大正6年に贈った和洋折衷の茶屋です。接待などに使用されました
内部は撮影禁止の為、写真は外側のみですが、細かいタイル細工や窓の作り、壁の中にも貝殻がちりばめられているなど、なかり凝った作りになっています。
〜青淵文庫〜

青淵文庫は渋沢栄一の傘寿の祝いと、男爵から子爵に昇格した祝いを兼ねて大正14年に竜門社が寄贈した書籍類を収める書庫、閲覧のための建物です。
ステンドグラスやタイルには渋沢家の家紋「丸に違い柏」に因んで、柏の葉をデザインした明るい装飾が施されています。晩香廬と共に国・重要文化財として指定されている建造物になります。
